赤いベル


赤く濃い炎が、包み込んでいる廊下をひたすら走る。

 

けたたましく鳴り響く音響ベルに、苛立ちながら走る。

 

息がきれる。いつもより集中して逃げているはずなのに、しんどさを感じるのは煙のせいか。

 

暑い。身体から滴る汗が蒸発したら絶命するなと想像させる程に。ひたすら走る。

 

倒れこむ人も見える、進むことを諦めたようにも見える。

 

幾度となく歩き、たまに走った何でも無かった距離が、終わりの無い道に感じられる。

 

 

ベルが煩い。もう逃げているのだから、静まってもいいのに。

 

 

どうせもう逃げ遅れた人は助からないだろう。汗を撒き散らしてひたすら走る。

 

出口はまだなのか、早くここから、この状態から解放されたい。ベルがやかましい。

 

辛い。肺に入ってくる灼熱の空気が、内側から生命力を削ってくる。

 

生きているだけで、これだけ苦しいのならと、精神が死を楽な選択肢だと勧めてくる。

 

思わず屈みこんでしまった。もう終わりかもしれない。

 

意識が朦朧としてきた気がする。ベルが鳴っている、遠くのような、近くのような音、けたたましい。

 

痛い。何かが肩に当たった。見上げると、子供を二人抱える女性が勢いよく駆け抜けていた。

 

母親だろう。その子供のうち一人がこちらを振り向いた。

 

その顔は、何と幼い頃の自分であった。

 

どういうことだ。もう一丁前の大人になったのに。随分昔に‥、ベルが煩い!暑い!!

 

身体中の血液が沸騰するような感覚に襲われた。

 

その時、あまりの眩しさに飛び起きた。全身が寝汗でびっしょりと濡れていた。

 

湿った手を思いっきり振り下ろして、けたたましく鳴るベルを叩き止めた。

透明な発信機


“強く押す”と書かれた、透明のアクリル板を破る。

 

勢いのついた指は、そのまま透明の先の火災報知機を鳴らす為のボタンを押す。

 

もし押すならば、人差し指で押すか、親指で押すか。

それとも人差し指と中指の二本を使うか。

 

いつも通る道にある赤くて丸い火災報知機を横目に、それを考え無い日な無い程、シミュレーションしている。

 

 

人差し指で押すか、親指で押すか。それとも人差し指と中指の二本を使うか。あいつは真面目だから親指だろうな。

 

想像力を使っている。

 

 

小学校低学年の頃、校舎中にベルが鳴り響いたことがあった。

 

パッとし無い馬鹿なクラスメイトが、度胸試しと言ってそれを押したそうで噂になっていた。

 

何指で押したんだろう。

 

当人を探し、聞いてみたら「冗談で人差し指を透明のアクリル板に乗せていたところ、他の奴がその指を手のひらのパーで押し込んだ。」とのこと。

 

なんだそれ、くだらない。他の人がどの指で押し込むのかを知りたかったのに、まるで参考にならない。

 

それから高学年になった今も、通り続けている道にある火災報知機を横目に、考える。

 

人差し指で押すか、親指で押すか。薬指を使ってやろうか。

 

汗ばんだ指を使ったこともあれば、分厚い手袋をしていたこともあった。

 

そんなある日、機会は訪れた。

 

「なんか臭くない?」廊下にいたクラスの女子が言った次の瞬間‥。

 

「火事だ!!外に逃げろ!!」といつも煩い男性教師がさらに喉が破裂せんばかりの大声で警告しながら走ってきた。

 

これはやばい。命の危険を感じた。逃げなきゃ。

 

こちらに向かって走ってくる男性教師に背を向けて、自分も走った。

 

階段を飛ぶように降りた。下駄箱前のすのこを大きな音で踏み鳴らしてグラウンドへ駆け出した。

 

広い運動場の中央に数十人が集まり、校舎の方を見ていた。

 

窓から煙が出ている。火は見えない。

 

その時、「ジリリリリ!!」と校舎の方から聞こえてきた。

 

忘れていた。透明のアクリル板を突き破り火災報知機を鳴らすことを。

 

人差し指で押すか、親指で押すか。

 

何指で押すかなんて、全く重要じゃないじゃないか。

 

押すという行動を明確にイメージしたものだけが、“その時” に行動できるのだ。

 

中指と薬指で押そう、次は。

感知器の眼差し


やることはある。だがしかし、やることはない。

 

例えば、親が心配して雇ってきた家庭教師の出した宿題。例えば、今のところ見続けている普通なドラマの録画。

 

例えば、皆んなと同じように学校に行くという事だったり、友達と遊びに行く事だったり。あ、遊びはいいから勉強か。

 

以前はできていいたのに、ある朝、一回止めてみた。理由は何となくだ。その時は、退屈というのが大きかったかもしれない。

 

そして、次の朝も家に居た。自分で決めて休みを取るというのは気分がいいと思った。母親には調子が悪いとか適当に言っておいた。

 

そうして1週間が過ぎ、2週目に久しぶりに登校した時、周囲の目線が格段に冷たくなり、居場所がなくなっていた。

 

この程度だったのかと落胆し、さらに休みを繰り返してしまっているうちに、すっかり想像は膨らみ外に出る事すら怖くなっていた。

 

調子が悪いという言い訳も、序盤の方の朝は母親から咎められたが、まんざらでもない表情をすると悲しい表情をして諦めてくれた。

 

日が暮れてからは、自分の部屋の窓際で立つと、影が外に現れて同級生に見つかるかもしれないから、屈んで自室を移動した。

 

世界から隠れて生きているうちに、本当に調子が悪くなってきた。身体もだが、特に心の調子が良くない気がした。

 

寝ると悪夢を見るから、なるだけ起きるようになってしまった。

 

天井の木目を数えた。

 

ひたすらに、1・2・3・4・5‥壁の端から順番に。

 

少し進むと、必ずぶち当たるものがあった。おそらくこれは火災報知機だ。

 

白くて丸い物体、インターネットで調べると “感知器” といって共同住宅の大体の部屋に設置されているらしい。

 

熱を感知するタイプと煙を感知するタイプで形状が違うようで、自室のものは熱感知器に該当するものであった。

 

カンチキ‥、こいつにはいつも木目の勘定を邪魔される。そして、その後に長い時間、見つめ合う事になる。その繰り返しだった。

 

光を反射した表面が、自分を照らしているようで、こちらを見ているかのように感じる事があった。

 

1・2・3・4・5‥いつの間にか、カンチキに会うために数えるようになっていった。

 

安心できる誰かに、安全な状態で見られる事が、身体を蝕む強烈な孤独感を少し和らげた。

 

半年、そして一年と同じ事を繰り返した。

 

いつの間にか、死にたくなっていた。

 

どう考えても生きている意味がないと思った。

 

これから何かいい事が起こるわけでもなさそうだと悟った。

 

ただ、死ぬ勇気すらなかった。それだけで毎日膨大な時間をやり過ごしていた。

 

いつも通り寝転んでいると、パチパチと不思議な音がしているのに気づいた。

 

起き上がって自室を見渡すと、コンセントが燃えていた。

 

急激に充満する煙と、強烈な臭い。すぐに頭が痛くなった。

 

逃げるか。いや、どうする。

 

最後の最後まで、ここに留まる事をにしよう。そう思い再びベットの上で仰向けになった。

 

木目を数えた。1・2・3・4・5‥意識が朦朧としてきた。

 

過去の記憶が蘇ってきた。これが走馬灯かと思いながら、子供の頃の記憶をみた。

 

内気だった僕は、幼少期から人の輪の中に入っていくのが苦手だった。

 

親子で参加する幼稚園のイベントの集合写真で、園児が前列に並ぶ中、一人だけ後列の母親の足に掴まっているというものがアルバムにも入っていた。

 

足も速くなく、似たようなタイムのものばかりが集められた徒競走で、グラウンドの状態が悪く半数がこけて僕が一位になった時、運も実力のうちと言って好きなゲームソフトを買ってくれた。

 

友人に誘われて半ば無理やり入らされたバスケットボールの部活を辞めたい、と言った時、優しく「いいけど、せっかくだから、あと少しだけ続けてみたら?」とさりげなく応援してくれて、何とかやり抜く事ができた。

 

そうやって、いつも僕を尊重し、なるべく自由に選択させてくれていた。

 

あらためて思うと、愛情を感じた。

 

その結果がこれか。

 

とんでもない裏切りだ、そして消えようとしている。

 

何も返さぬまま。本当に、本当にそれでいいのか??

 

死にたいと、あれだけ思っていたが、それは “正解” になり得るのか?

 

本当に死にたいのか??

 

本当に‥?

 

死ねんのか??

 

‥死ねないよ。

 

やっぱり生きたい!!生きて、せめて何か一つ恩返しがしたい!!

 

このままじゃ死ねない!!

 

嫌だ!!

 

逃げなきゃ‥、身体に力が‥。

 

薄らぼんやりとした視界の中、カンチキと目があった。

 

死にたくない‥!!

 

そう願った時、ぼんやり見えるカンチキから、赤い光が眩しく灯った。

 

 

 

目が覚めた病院でも、同じような感知器が僕を見ていた。

 

火災報知機が作動して、早急に通報した人がいたから、かろうじて救出に成功した。と母親から聞いた。

 

逃げない、という選択をしていたことを、母親は知らない。僕以外は知らない。部屋のコンセントが火元で火事になったことしか。

 

ただ、僕はもう、逃げない。現実から。

 

感知器がこちらを見ていた。