エッセイとは、筆者の体験や読書などから得た知識を元に、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である。随筆(ずいひつ)、エッセーなどともいう。「仏:essai」の原義は「試み」であり、「試論(試みの論文)」という意味を経て文学ジャンルとなった。日本においては日記的随筆のイメージもあって、気軽な漫筆・漫文のスタイルを指して用いることがある。
結婚という、シンボリックなライフイベントの衝撃は大きかった。
彼氏彼女の関係であれば、互いの両親が口を挟んでくる事は特段無かったが、結婚という手続きをとると、まるで村上ファンドよろしく「物言う株主」ばりにステークホルダー(利害関係者)となった“両家”という旧態依然としたモラルの象徴が介入してくる。
非上場であれば、株主はいないから経営方針は自分たちで決められる。
子供を持つため、彼女が結婚したがっているから‥の様な動機で結婚に踏み切る男性は多いだろう。
本当に、その関係を上場したいか?‥という部分を考え、自分で納得した上で進むべきだと思った。
そんな事、誰も教えてくれないし、言ったり聞いたりした所で「は?こいつマジやばい奴じゃん」と思われるだけなんで、どうせ“壁”なんですけどね。
尤も、自立という自己中心性からの脱却をして幸せになるために、不可分なる「私たち」を世界の中心に置いて生きるキッカケとなる結婚は、大変素晴らしいもの‥という事なので、頑張らにゃいかんのですが。
〝毒殺〟って言葉の意味が広過ぎる。
〝絞殺〟とか〝撲殺〟とか〝刺殺〟とか〝射殺〟とか、それ全部「物理攻撃」やん。
それやったらガスなら気殺とか、経口なら飲殺とか、青酸カリなら青殺とか‥。
でも青酸カリって種類の話したら、銃殺もサブマシンガンとかやとサブ殺とかにせなあかんから面倒いか。
バスケでもファールの種類がプッシングとかブロッキングとかハッキングとかいっぱいあるのに、〝バイオレーション〟とか直訳したら〝違反〟やからな。
それファールもやん、ってなるよな。
まあ面倒くさい事は、フワッと決めといたらええやんっていうルールの中の暗黙のルール。
一昔前は、体育会系というと “上下関係絶対” とか “軍隊集団” みたいなニュアンスやった、というのはそういえばそうやったんかもしれない。
ただ、今のというか、私個人の受け取り方なのかもしれんけど、【体育会系】という言葉で意味するところは以下のようなニュアンス。
①実力主義‥年下が年上より上手くて、試合に出るなんてザラにある話。それを把握して努力できる世界、そういう人間が体育会系。
②努力家‥例えば静岡高校の野球部は東大進学率が高い、これは普段一生懸命取り組んでる野球の代わりに、というか野球をする為の税金みたいな感じで勉強にも集中して取り組めるからやと思う。ただ、勉強も理解というよりは成績とかの数字を達成する感じでやってしまう。こういう努力の仕方も体育会系。
③アホ‥やっぱりホンモノのエリートに勉強・仕事で勝てる事は殆ど無い。
他にも日常会話で、世代間で意味のギャップを感じることは割とある。注意すべきは自分が古い側に立った時、新しいものを否定しないこと。これは古いやつが悪い。
新卒で入社した大手企業の人事担当者に退職する旨を伝えたときの怒り方(いかりかた)といったらもう今にも爆発するんじゃないかと思う位の激しさだった。
一ヶ月の海外研修を含んで僅か半年でそうなったのだから無理はない。
会社にとっては投資失敗というわけだ。そして、その人事担当者にとっても。
『オメェ‥、何でこの会社入ったぁ…??』と歯を食いしばりながら、歯磨きで言うとずっと “イー” の状態で話すその様は思い返すとあの “いっこく堂” さながらの腹話術であった。
顔は怒りで真っ赤に染まっている。
足は貧乏ゆすりどころか、激しく上下している。しかも両足。ドラムで言うと “ツインペダル”。ドドドドドドドドド‥
嫌われる勇気という本で “怒りは出し入れ可能な道具” と記されていたが、あれは道具というかトランスフォームに近かった。
しかし芸ってのも、言われてみれば道具のひとつか。
なんて舐めた事考えてるから、たくさん怒らせちゃうんですよね。
ダントツで『バスケットボールの試合に勝つ方法』が知りたかった。
それは『全国高専大会で優勝する方法』とも言い換えられる。
失敗して、負けて、暗闇の中をひたすら走って、そしてたまたま優勝できた立場として、経験から学んだ勝つために大事だったことは以下の3つに集約される。
①自分自身の努力
②仲間と努力しようとする努力
③仲間とする努力
負けた時は、①だけをひたすら誰にも負けないように頑張っていた。それをすれば勝てると信じていた。
しかもジャンルがバスケットボールというチームスポーツであるにも拘らず。個人競技でもチームで努力しているのに。
まさか、②が大事だなんて。頑張っていない奴なんて淘汰されればいいと思っていた。
そんな彼らのモチベーションを引き上げるような声かけや、起用の仕方がチームの勝敗を左右する因子になるなんて。
そして一丸となって③ができれば、実力はグングン伸びる。まさに右肩上がり。そして最高の状態で本番に臨めれば勝率は高い。
もちろん運もあるが。
こういうことを経験的に学べたのは勿論大きいとは思うが、衝撃だったのが “7つの習慣” という本にこれと同じようなことがもっと分かりやすく纏められていたことだ。
もっともあの時の自分が7つの習慣を読めるか、そして読んだことを役立てられるかは分からないが、少なくともそういう超重要な情報が書いてある本があるという事は、これからを生きる方々に知ってもらいたい、あの時の自分に伝えたいなと思う。
例えばブログで消防法に基づいた施工・申請の方法を公開しているのは、誰でもできる作業とそうでないものを線引きしたいからだったりする。
そしてそれに成功し、これを見れば初心者でもできる!というマニュアルやら何やらができてきたとする。
しかし、作業自体は無くならない、無くせない作業もある。
なら、それを以下に面白くやるか、を考えていく必要があると思う。
そして、作業が面白くなる時ってどういう場面…と少し思い返せばすぐに答えがでる。
一緒にいて楽しい仲間と時を共にしている時だ。
だから、最終的には職場とか仕事というのは今のような状態というか制度から変わっていくのかなと。
変わらなければ続かないのかなと思っている。気付いている。
だからコミュニティを作りたい、楽しい時を共に過ごせるコミュニティを。
そうやって仕事ができれば、マニュアルによる効率化の次を行く究極の効率化ができると思っている。
殆どの人が当たり前のように所属してしまっている職場というコミュニティ、2018年の今は情報革命の過渡期で集団内に様々な考えというか社会宗教というかを持っていて世代間や境遇で細かいキャズムが刻まれている感じがする。
このキャズムがチカラを合わせる上で厄介で、中には老害ってやつも混ざっている。
だから、仕事を通して感じるこの鬱陶しい感じを無くしたいがために、コミュニティを再形成したい、作り直したいという思いが強くなる。
それが難しいのだが。
そんな中で、学生時代の “作られた” コミュニティである学校という場は、改めて特別な場所・時期だったと思う。
あれほど同世代と密に同じ時間を同じ場所で過ごせる環境は2度とないだろう。
それはつまり、あれほど密な環境要因の結び付きも2度と作れない貴重なものであるという事だ。
だから同級生や同じような境遇で生まれ育った人間というのは、久しぶりに再会しても心地よいのだろう。
そんな仲間と働けたら最高なんだろうなと思う。
コミュニティ信者ここにあり。
これからは仕事をする職場のメンバーというのもミッションに応じて集まっては解散するような形態になると言われているし、現にそうなっているところもある。
またまたコミュニティの話に引っ張られるが、一人でできる事が限られているから集団に属するわけで、必要なければわざわざ人と無暗に、例えば職場という同じ空間に何時間もいなくてもいいと思う。
そして、ここで重要なこととして、集団の中で “個” として何ができるかを挙げたい。
“個” というのは、ミッションを達成する為の集団の構成要素、つまりチームの “素材” である。
この役に立つ “素材” であるかどうか、何らかの役割がなければそもそも存在しなくてもいい、と結論付けられる。
「このミッションに、自分という “素材” は欠かせない!」と思える何かがあるかどうかで、働けるかどうかは変わると思う。
今までの職場や組織では、この “素材意識” がないフリーライダーが多すぎたのではないかと感じる。
自分はこういう素材である、と言えるような武器を持ちたい。そして、意志あるコミュニティで何かを成し遂げては…を繰り返したい。
デスク上で完結できれば楽だが、特に建設業の場合は現場ありきであるし、この先も暫く人間がやり続けるであろう労働もあると思う。
しかし、考え方を変えてみるとデスク上の業務ばかりだと、かなり運動不足で身体にも悪いという側面があり、これは解消されるべき問題と捉えることも出来るのではないだろうか。
それならば現場作業を運動、エクササイズと捉えてみてはいかがだろうか。
思い返せば、新卒で入社した企業での研修で物流倉庫の過酷なライン作業に2ヶ月間従事したことがあるが、その期間に一度バスケットボールをしたら体力が全然衰えていないどころかむしろ上がっていて活躍できた覚えがある。
消防設備士の業務は、この現場でのエクササイズとデスク上での届出類作成が丁度いいような割合に出来るのではないかと思っている。
ジムで負荷のかかるトレーニングをしなければ得られない筋肉などもあるのは承知だが、退屈にランニングマシンを走ったり負荷の軽い腕のトレーニングなどで運動エネルギーを無駄に発散させることを思えば、それを現場で有効活用した方が利得が大きい。
これは家事などの片づけをしている時にも思っていて、腕立て伏せのエネルギーは床の雑巾がけに使えるのでは…というように。
解釈次第で、これから肉体労働にも一定の支持・関心が高まるかもしれない。